百姓になりたい百姓百太郎の日記

現在無職の百姓百太郎が、真の百姓を目指す日々の記録

ファンタジーなめんな

SF・ファンタジー作家として高名なアーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジーに関する評論集。

 

日本では、宮崎吾郎監督でスタジオジブリがアニメ映画化したゲド戦記の原作者として有名。

 

本書は、ファンタジーや児童・ヤングアダルト文学、動物文学などについての、アーシュラの近年の講演や評論をまとめたものである。

 

講演や評論が発表された時期や媒体は様々だが、おおむね通底しているテーマはファンタジーだ。

 

そして、おおむね一貫して半ギレ。

 

何に半ギレしているかというと、ファンタジーに対する世間の過小評価、あるいは不当評価についてである。

 

例えば、ファンタジーといえば、子供やヤングアダルトが暇つぶしや現実逃避に用いる荒唐無稽で幼稚な商業作品であり、情緒的・知的に成熟した大人の鑑賞や分析に堪えうる文学の対象とはなりえない、という批評家や世間の評価だ。

 

ファンタジーの持つ奥深さや力は、けしてそんな矮小なものではないとアーシュラは鋭い舌鋒と強い筆勢で力説する。

 

アーシュラは、こういった批評や世間の評価に対し、ファンタジーの名作の豊富な事例を引用し、理路整然と反論している。

 

アーシュラの反論は、ぐうの音も出ない正論であるのはもちろん、その論調の力強さや筆致の洗練された美しさで、難解でとっつきにくくなりがちな評論を、痛快な読み物にまで昇華している。

 

アーシュラの主張を百姓百太郎なりにざっくり意訳すると、

 

「ファンタジーなめんな」

 

といったところである。

 

人類が記憶や経験知を言語を介して伝達する手段として獲得した「物語る」という能力が、最初に生み出した文学(口伝)作品がファンタジーである。

 

中世欧風の文化・文明的背景に、剣と魔法と竜をぶっこんで、善と悪を戦わせれば、はいファンタジーの一丁上がり、というイメージは、ファンタジーというものの目立つ一部ではあっても、本来のファンタジー全体の姿ではない。

 

真のファンタジーは、文学の一分野ではなく、そもそも文学全ての土台なのだ。

 

世間に流布して、消費の過程で粉々に細分化され、衰弱しきった本来のファンタジーのかけらに過ぎないものを捕まえて、見当違いの批判のこん棒で散々小突き回して批評家を気取っている連中の台頭に対する義憤が、本書の端々から気炎を上げている。

 

ファンタジーの何たるかをうんぬんするのなら、まずはこの本でアーシュラが挙げたファンタジーの名作を一通り読んで、ファンタジーの端切れではなく、古今東西の人類の想像力の総体に等しい広大無辺のファンタジーの本体と同じ土俵に立ち正対するだけの知見と度胸を具備することが最低限の前提条件になるだろう。

 

というわけで、百姓百太郎も、まずは「はなのすきなうし」から始めたいと思います。