百姓になりたい百姓百太郎の日記

現在無職の百姓百太郎が、真の百姓を目指す日々の記録

ミッシングリンクの供養

明治から大正初期にかけて、文芸業界に大きなシェアを占めながら、現代ではほとんど忘れ去られた文芸ジャンル、「明治娯楽物語」について20万字くらいかけて紹介した本。

 

どれくらい忘れ去られているかというと、「明治娯楽物語」というジャンル名自体、筆者が便宜上命名せざるをえなかったというくらい忘れ去られている。

 

明治時代、文明開化に伴い、諸外国の文化が日本へ一気に流れ込んだ。

 

200年以上日本が鎖国していた間に、その他の世界中で蓄積されていた莫大な質量の先進文化が国内に一気に流れ込んだものだから、文明開化したばかりの日本はそれを消化し血肉に転化するのにてんやわんやの激動の時代に突入する。

 

政治や経済や産業や風俗や社会通念などがものすごい勢いで刷新される中、もちろん大衆文化もその奔流のあおりをもろに受け、溺れかけた。

 

溺れかけた大衆文化がとりあえずつかんだワラ、というか自ら作り出したとりあえずの救命具が、「明治娯楽物語」というジャンルだった。

 

ジャンル、ととりあえずひとくくりにしているが、その実情は混沌とした闇鍋のごった煮が鍋からあふれ出して異臭を発散している有様で、名付け親である筆者自身、明確な区分はできないと文中で言及している。

 

江戸時代の文化が芋虫で、大正時代以降の文化を蝶とするなら、この本が取り上げている明治時代の文化は、さながらどろどろにとけて何の実体もなしていない、さなぎの中身にあたる。

 

江戸時代の落語や講談といった文化が、江戸から明治~大正という時代への移行に伴うサードインパクト顔負けの急激すぎる気候変動に適応して生き残るためのなりふり構わぬ試行錯誤が、題名にある「「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説」のような作品を雨後の筍のように濫造した。

 

 

この本で紹介されている作品のほとんどは、筆者が言っているように内容がめちゃくちゃで、お世辞にも良作とは言えない作品ばかりのようだが、現代では当たり前となっている小説というジャンルや、見慣れたお約束の設定や物語の展開形式の萌芽がそこかしこにある。

 

動植物の進化の過程を化石などの発掘から解き明かす学問を古生物学という。

 

「明治娯楽物語」は、古生物学で言うところのミッシングリンクみたいなものだろう。

 

古生物学では、動植物は、時の流れや環境の変化に適応して、その姿かたちを徐々に変化させてきたとされているが、その変化の中間段階の化石などの証拠が見つかっていない状況をミッシングリンク(失われた環)という。

 

連なった鎖の環の一部が欠けているイメージだ。

 

江戸時代に円熟した言語表現を主体とする娯楽である落語や講談といった文化と、現代では当たり前の主流となっているが、江戸時代にはその影も形もなかった小説や漫画といった文化は、まるで別々の系統の種のように見えるが、この本で紹介されている「明治娯楽物語」という「失われた環」で繋げると、連綿と繋がる一本の鎖であったということが分かる。

 

この「環」は、非常に小さくてもろくて歪んでいるが、確かに存在する。

 

現在、私たちが何の気なしに享受している娯楽の系譜、その失われかけていた「環」の一つを、この本では発掘し、ホコリをはらってきれいに並べて、面白おかしく紹介してくれているので読みやすい。

 

ちょうど季節はお盆。

 

お墓参りにいくと、いくつもならんだ一族の墓石の中に、表面が風化して文字が読めなくなり、何者か分からない墓石を見かけることもあるだろう。

 

だが、何者かは判然としなくても、その墓石の下に眠る正体不明の誰かは、今を生きる私たちを生む上で、決して欠かすことのできないご先祖の一人なのは間違いない。

 

「明治娯楽物語」の一群も、現代文化を生み出す上で欠かすことのできないそんなご先祖様の一人として、この本を読むことで感謝をささげ、供養の代わりとすることで、現代文化をより奥深く見直すことができそうだ。