真の犯罪被害者救済とは
シリアルキラーに殺された少女の、「死後」の視点から、遺された家族の心の軌跡や、犯人の動向を描くファンタジックなサスペンス。
以下ネタバレを含みますのでご了承下さい。
いたいけな少女(スージー・サーモン)が、連続殺人犯の魔の手にかかり、無惨にも殺害される。
遺された家族は、それぞれの苦しみにうちひしがれ、生活は荒れ果てる。
殺されたスージーは、この世に未練を残し、天国とこの世の間にある夢のような世界をさ迷っている。
死者は、超常的な視点でこの世の出来事を俯瞰する。
自分を殺した犯人の過去の殺人の情報を知ったり、遺された家族や知人の様子も垣間見る。
死者の存在を感知できる少女や、スージーからの幻や直観を通じたメッセージを受け取り、犯人への復讐に執念を燃やす父親など、殺された被害者という最大の証人から情報を得られる登場人物がおり、犯人は徐々に追い詰められていく…かと思いきや、そうはならない。
一応、父親や妹の懸命の真相究明の努力もあって、犯人の残虐な犯行の証拠が明るみに出るのだが、警察に逮捕されて法の裁きを受けることも、復讐に燃える父親に制裁されることもない。
これは、悪事を犯したものが裁かれるという、安直な勧善懲悪の物語ではなく、犯罪の被害者たちがどう救済されるかを描いた映画である。
犯罪の恐ろしいところは、犯罪被害の発生時だけでなく、被害者や遺族の心に深い傷を残し、それまでの生活を崩壊させ、その後の人生の幸せまで台無しにしかねないところだ。
この映画でも、スージーが死後の世界でも殺された恐ろしい体験を引きずっていたり、娘の犯人探しにとりつかれて常軌を逸した行動をとる父親や、逆に娘の死を受け入れられず、家を出ていってしまう母親の痛ましい姿が描かれる。
だが、この映画では、犯罪によって傷ついた人々が、それぞれの心の遍歴の果てに、再び幸せな日常を取り戻していく。
その遍歴には、犯人の断罪は含まれていない。
犯罪の被害者にとって、本質的に重要なことは犯人の断罪や復讐の成就ではなく、損なわれた幸せを取り戻すことなのだとこの映画は訴えている。
もちろん、罪を憎んで人を憎まずの精神で犯人を許すべきだという意味ではない。
裁かれるべき者は正当に裁かれるべきであるが、その事と幸せを取り戻せるかどうかは、本質的に別問題なのである。
結局、この物語では、犯人の犯行の証拠が出るものの、勘がよく機を見るに敏な犯人は、すんでのところで司直の手を逃れ、まんまと逃げおおせる。
だが、そんな犯人の動向とは無関係に、スージーや遺された家族たちは、辛い喪失を乗り越えて、新たな幸せのために生活を取り戻していく。
逃走に成功した犯人は、どこか別の場所で性懲りもなく次の殺人を犯そうとするが、まるでこれまでの罪の報いを受けるかのような偶発的な事故に遭い、あっさりと死ぬ。
物語の主旨としては、犯人の行く末はうやむやのまま終わっても良かったのかもしれない。
とってつけたような因果応報的な犯人の末路ではあるが、後腐れのないスッキリ感は後味が良くていい。