百姓になりたい百姓百太郎の日記

現在無職の百姓百太郎が、真の百姓を目指す日々の記録

はなのすきなうしの血

はなのすきなうしが主人公の絵本。

 

名前はフェルジナンド

 

フェル「ディ」ナンドではなくフェル「ジ」ナンドなところにこだわりを感じる。

 

この評論集で紹介されていたファンタジーの良作の一例ということで読んでみた。

 

以下ネタバレを含む内容となりますので、ご了承の上お読みください。

 

フェルジナンドはスペインの牧場で飼われているうしだ。

 

スペインは闘牛が盛んで、牧場の他のうしたちは、憧れの闘牛になるために、日々とんだりはねたり角を突き合わせたり頑張っている。

 

一方のフェルジナンドは闘牛には全く興味がなく、はながすきなので、お気に入りのコルクの木の下ではなをながめて日々を穏やかに過ごしている。

 

が、ある日、ハチに刺された痛みでとんだりはねたりしているところを闘牛のスカウトにきた人間たちにたまたま目撃され、そのフィジカルを見込んだ人間たちに連れられて闘牛に出場することになってしまう。

 

だがフェルジナンドははながすきなうしであり、闘牛がすきなうしではないので、連れ出された闘牛場ではその場に座り込み、観客のご婦人たちの帽子に飾られた色とりどりのはなをながめるだけだった。

 

牧場に戻されたフェルジナンドは、いつものようにお気に入りのコルクの木の下ではなをみる。

 

というお話。

 

なにか、夢を忘れて日々ストレスに脅かされながら仕事をしている労働者の心に響く教訓を暗示しているような内容だが、そこにはあえて触れない。触れると闇に取り込まれそうなので、あえて触れない。

 

ところでこの絵本、闘牛が舞台装置の一つとなっているが、直接的に血なまぐさいシーンは全くない。

 

ないのだが。

 

表紙が真っ赤。

 

まっかっか。

 

どうしたってくらいクリムゾン。

 

赤地の表紙の真ん中にたたずみ、後ろ向きのフェルジナンドが、肩越しに顔を向けている。

 

口元にははな。

 

足元や表紙全体にもはなが咲き誇っている。

 

牧歌的でのどかな絵。

 

でも赤い。

 

百姓百太郎には、絵本のようなシンプルな物語を読むと、頼まれてもいないのに深読みして、そこに重大な教訓やテーマがあるのではないかと、物語自体を素直に受け止めず、抽象化して、それをエッセンスに還元してしまう悪い癖がある。

 

だが、この絵本に関しては、物語の教訓やテーマではなく、物語自体に対して、その深読みの悪癖が発動してしまった。

 

この赤は、一体何を暗示しているのか。

 

アメリカのケーキがどぎつい蛍光のパープルやピンクだったりするのと同じで、文化的な色彩感覚の相違に過ぎず、「はなのすきなうし」が出版された元の国の感覚では、児童書の表紙を鮮血色にするのは、特に取りざたするまでもない一般的な慣習なのかもしれない。

 

だが、闘牛というキーワードが念頭にあると、この赤が、リンゴやチューリップや紅白饅頭などに代表されるポジティブな印象の赤ではなく、もっと血なまぐさくて、暴力的で、悲劇的なイメージを否応なく喚起するネガティブな赤に見えてしまう。

 

もしかしたらフェルジナンドは、闘牛場から牧場に連れ戻されたのではなく、実際には

その場で殺されていて、最後に戻ってきたように見える牧場は、天国の光景なのではないだろうか。

 

このお話が伝えるメッセージの一つに、個性を尊重することの素晴らしさがあるとは思うが、一方で、はなのすきなうしだろうが、闘牛にあこがれるうしだろうが、うしに生まれた時点で残酷な死の運命は避けられないという大きな宿命の前では、個性を尊重しようがしまいが、迎える残酷な結末に変わりはないという無情なる世の中の真理が、出血と死を象徴する赤に染まった厚紙の表紙と背表紙と裏表紙という形で、このお話をしっかりと包装している。

 

そんな救いの無い解釈も十分に可能な、ファンタジーの底力を思い知らされる、懐の深い作品である。