新海誠とドラゴンボール
天気の子を映画館で観賞。
以下感想。
ネタバレを含みますので、ここから先を読まれるかたはご了解の上、お進みください。
内容は面白かったです。
ただ、真っ先に連想したのはドラゴンボール。
これは、ストーリーというより、映画の製作方針についての連想。
天気の子は、君の名は。の続編といった立ち位置。
あるいは、改良コピー。
ティーンのボーイミーツガールストーリーで、天災が街を襲う。
そしてラドウィンプスのテーマ曲。
キャラクターデザインも同じひと。
物語の構造も演出に関わるアレコレも、君の名は。を踏襲している。
ただ、その規模が大きくなっている。
天気の子は、君の名は。と同軸の延長にあるとも言い換えられる。
路線変更はせず、同じ道を先に進んだ。
この経緯は、ドラゴンボールに似ている。
ドラゴンボールは最初、何でも願いを叶えてくれる不思議な七つの玉を巡る冒険ファンタジーだった。
その過程で、ドラゴンボールを求める様々な人々が衝突する。
ものがものだけに、その衝突は暴力的となり、鳥山明が描く躍動感溢れるアクションは多くの読者を虜にした。
そしていつしか、ドラゴンボールの主役はドラゴンボールではなく、暴力となった。
次々と現れる強者との戦いが、めくるめくバイオレンスが、最終回まで延々と繰り返される。
アイテムとしてのドラゴンボールは、時々、申し訳程度に小さなコマでその使用が言及される程度にまで存在感を減損した。
読者からのフィードバックが直ちに返ってくる商業作品において、路線変更はやむを得ない。
そのおかげで、ドラゴンボールはバトルアクションマンガの不朽の名作として殿堂入りした。
だが、その人気にも関わらず、ドラゴンボールは終わった。
何故なら、行き詰まったからだ。
読者の要望通りに、シンプルな暴力を描き続けた結果、物語の幅も狭まった。
新海誠の作品にも、同じ現象が起きつつあるのではないか。
ドラゴンボールにおける強さという要素が、新海誠の作品では、ボーイミーツガールであり、災害であり、ラドウィンプスに固定化されつつある。
いくら工夫を凝らしても、同じ構造を使い続ければ、ドラゴンボールと同じインフレに行着く。
もし新海誠の次回作でも同じ構造が踏襲され、例えば災害の規模が、東京から市や街レベルに縮小されたら、観客はなんとなく期待外れな気分になるのではないだろうかと、ふと思った。